藤元健太郎のフロントライン・ドット・ジェーピー

2003年4月21日月曜日

ITインフラにおけるシビルミニマムの考え方

(2003年4月日本経済新聞電子版の「ネット時評」に掲載されたコンテンツを編集しました)

かつて世界の中でもかなり高い水準であった日本の通信料金も,自由化と技術革新の中で世界でもトップクラスの低価格が実現され,ブロードバンド化も米国をしのぐ勢いで普及している。しかし,IP電話などベストエフォート型のインターネットをベースとしたサービスが急速に拡大する一方で,市場原理によるサービスの地域格差の広がり,ライフラインとしてのサービスレベルの確保などの点に対する不安がでてきている。かつて電話は停電でもかかり,110番や119番という危機的状況に対応し,一家に一台あることを前提に各種公的書類でも自宅の電話番号というものがひとつの信用にもなっていた。しかし,コードレス電話の普及のあたりから停電だとかからない電話が増えはじめ,携帯電話の普及は自宅に電話の無い家庭をも急増させている。しかも携帯電話は明かに固定電話に比べると接続の保証度は低く,必ずつながるものでもない。電話番号と住所の同一性も弱くなり,通常の固定電話の役割をそのまま継承しているわけではない。こうした中でさらに今IP電話の大きな波が来ようとしており,固定電話から置き換える人が急増することが予想される。かつてNTT王国が築き上げた日本人の生活基盤,ライフラインである固定電話は確実に主役の座を明け渡そうとしている。そればかりかNTTグループもこれまでの全国あまねくユニバーサルサービスを維持する考え方を転換し,自らが携帯電話とIP電話のアクセルを踏もうとしている。こうした状況の中で我々はNTTに依存してきたライフラインとしての通信基盤を今後どのように維持・整備していくかを議論する時期に来ていると言えるだろう。
これまで日本の通信政策はAT&Tの分割以来の米国型の自由競争を見本として進んできた。しかしインターネット型インフラをベースとした社会はIT先進国の米国でさえブロードバンドは足踏みしており,まだまだ模索をしている段階であり,見本は存在していないのが現実であろう。
こうした中で筆者は今後通信政策の中にITインフラ整備におけるシビルミニマムの考え方が必要だと考える。シビルミニマムは主に自治体が市民に対する必要最低限の権利として考えるものであるが,現在は社会保障としての生存権,公共財として共有できる共用権,生活のための環境を享受する環境権の3つの権利から構成されると言われている。成熟した社会になった日本としてはこのシビルミニマムの考え方の中で,地域それぞれに適した環境権と,それに基づいた新しい社会資本としての公共財の共有権がとても重要になってきている。通信も従来は電話そのものが必要とされ,離島や過疎地域に電話回線を引くことが通信インフラにおけるシビルミニマムそのものであったが,現在は多様な生活環境が存在するため,それぞれ地域環境にふさわしい多様かつ重層的な通信におけるシビルミニマムの考え方が必要であると考える。そこで各地域毎に以下のようにレベル別に市民が最低一種類以上の方法で通信環境を確保することを目指す整備目標を掲げることが必要だと考える。

○通信環境におけるシビルミニマムの検討レベル
レベル1 緊急通報の確保手段
レベル1 災害時の通信手段
レベル2 行政サービスの利用方法
レベル3 地域コミュニティへの参加
レベル3 民間サービスの利用

また検討にあたっては以下のような地域固有の環境を鑑みる必要がある。

○地域特性として考慮するポイント
各種通信サービスの普及度合い
民間事業者のサービス計画
・トラフィックの大きさ
市場規模
想定される災害の可能性と種類
市民の通信サービスとアプリケーションの利用状況
地域コミュニティの活動状況


このように最低限のインフラ整備目標と方針を検討し,通信事業者にまかせる部分,行政がおこなう部分,NPOなどの委ねる部分の比重のグランドデザインを描くことが求められ,東京のような都会ではすでに民間事業者が多様なサービスを提供しているため,民間事業者の比重はおのずと高くなる,集中するトラフィックを分散するキャパシティ管理について民間事業者に対するガイドラインを行政サイドから求める部分などが重要になると考えられる。しかし,NTTが固定電話を維持できなくなる可能性がある中,地域によっては今後レベル1としての固定電話やレベル1-3を維持するためのダークファイバーは税金の補填で維持する必要がでてくる可能性も多いにあるだろう。また家庭内の通信インフラだけでなく,地域としてパブリックな通信拠点や環境の整備も災害や行政サービスを提供する上では必要になり,そうしたシビルミニマムの考え方が適用される。またこうしたプランは中長期のレンジで市場原理の中でもまれあう各種サービスの動向をにらむ形での検討が必要になるため,時間軸の中でこまめな改訂と検討が必要になることも確かである。政策当局と行政サイド,そして住民参加の形での地域別の多様性を鑑みたシビルミニマム議論は市場原理に委ねた民間事業者とは別次元の議論としてその重要性は増していると言えるだろう。

2003年4月14日月曜日

ITとFTの結婚はあるか?

(2003年4月、米国版「Wired」の日本版「Hotwired Japan」で掲載されたコンテンツを編集しました) 


ご無沙汰をしていたが,また連載を再開することになったので,何かしら読者の方々のビジネスや知的好奇心への気づきのヒントなれるような話題を提供していければと思う。
さて,今年はあの「Mosaic」が世に出てから10年の記念すべき年である。10年一昔と言うが,確かにこの10年でインターネットを中心とするITが社会を大きく変えたことは確かである。誰もが街角で,世界中の誰とでも低コストでいつでもコミュニケーションできる状況になり,肉屋のお肉ですらバーコードをなぞれば「ボクは○○牧場から昨日出荷されたんだよ!」と語ってくれる状況になりつつある。まさにコミュニケーション革命と呼ばれるぐらいに我々の情報摂取とコミュニケーションのありようは大きく変わった。しかし,一方であのMosaicの画面を始めて見たときに多くの人が想像した「社会の革命」までは進んでいない部分も多いのも事実である。この10年で我々が学んだものは社会の変化を資本主義の市場メカニズムに委ねている以上,市場メカニズムに乗らないものは変化せずということがわかったということであろう。1999年から始まったITバブルは「ITが変える新しい社会のメカニズム」を「現在の社会のメカニズム」で評価するという矛盾が起こした現象とも言える。つまり人々の思いや夢の力であるコミュニケーションは劇的な変化をとげているが,残念ながら「お金」という現在の社会システムでの最大の力とシンクロナイズしていない。確かに株式は低コスト24時間売買できるようになり,銀行に行かなくても振り込みはできるようになったが,これら金融サービスのコミュニケーション革命は進んでいるものの,金融機能自体の革命ではない。人々の欲望や夢は社会を動かす力にはなるが,現在の社会のメカニズムでは,途中でお金という代替手段にそれを変換することで動かしている。つまりこのコミュニケーションとお金の変換メカニズムを変えられない限り,本質的なIT革命は訪れないことになる。

そもそも現在の金融の仕組みは「地理的にも離れたところで多数の企業や人々がコミュニケーションを行うことは容易ではない」を前提に作られたものである。だからお金に価値を変換することでコミュニケーションを可能にしている部分は多い。しかし,ITがその大前提を崩した以上,そのメカニズムはどう変わるべきなのだろうか。筆者はここで3つの分野での対応を提案したい。

1.デジタルコンテンツにおけるファイナンススキーム

よく言われることであるが,現在の著作権の考え方はグーデンベルグの印刷機が登場したことに危機感を覚えた聖書の流通業者が既得権益を守るために考案したもので,そもそも思想からして流通業者のためのものであるという話がある。真意はともかく,現在の仕組みはまさに印刷機が大量生産を可能にしたことで聖書が工業製品のようになるところからスタートした。音楽や小説などは工業製品として一律な価格体系のもと在庫リスクを気にしながら商売をするメカニズムの上にのってしまった。その結果,アーティストは大量に販売しなければ大きな富は得られず,かつ自分の作品を多くの人に受け入れてもらうには売れなければいけないというルールの上にのることになった。しかし,昔にさかのぼればメディチ家のようなパトロンに抱えられることで生活が保障されたアーティストが売れることをきにせず活動できる時代があったわけで,そうした活動を著作権の考え方で縛ることが有効なのかどうかはあらためて考える時代に来ていると言えるだろう。
そこで筆者はITによってきめ細かいコミュニケーションが可能になった以上,得られる価値の大きさに応じたファイナンスのスキームが作れるのではないだろうかと考える。
例えばアーティストをもっとも近い立場でささえるエンジェル投資家はパトロンとして高額な投資を行うが代わりに,アーティストとの密接なコミュニケーションが可能であり,自分だけのための作品を作ってもらうことも可能であろう,もちろんアーティストの成功により,大きな配当もある。次に小口の投資家はプチパトロンとして配当として発売に先行して作品を手に入れることができたり,成功すればある程度の利回りで配当もあるだろう。その次の作品を購入する人は純粋に作品を楽しむだけである。ただしこれも長期で利用権利を手に入れる人とテンポラリで今だけ利用したい人では価値が異なるので価格体系は変えるべきだろう。最後は無償で聞く人である。とりたてて大きな価値を感じない利用シーンにおいては無償の場合もあるだろう。価値の大きさは人によって,異なるわけで,価値に応じた対価を支払うことが普通である。実際我々が普段購入しているものも数や時間,状況によって価値は変わり価格も変わる,ITはこうした複雑な関係を管理することを可能にする,しかし今は死ぬほど愛しているファンもただ何気なく買う人も同じ3000円ばかりの価格でしか購入する選択肢がない(なのでファンは同じCDを何枚も買うという悲しい行為にでていたりする)。

クリエイターとのコミュニケーション距離に応じた多様なメカニズム


こうした小口の投資の仕組みは少しずつではあるが始まっている。みずほ証券とマネックス証券はゲームソフトのときめきメモリアルを小口の証券化し,販売した。一口1万円で10口から購入できるため約3000人から7億8000万円を集めることができ,2003年2月末には1万105円でめでたく償還された。また昨年末には中国雑伎団の興行も個人投資家からファンドをつのる形で2億円を2週間で集めた。ファミリーマートのEビジネス会社「ファミマコム」ではファンドという形ではないがドラマや映画の制作のための資金を一般のサポーターから小口の投資をつのっている。漫画もコミコインという好きになった応援団からお金を集めるサービスを展開しており,作品を世の中に生み出していく新しい仕組みを試みている。
このように,アーティストと受け手の最適な関係を前提にした仕組みが実現できる土壌は整ってきているわけであり,デジタルコンテンツによる違法な流通に嘆くだけではなく,新しい仕組みでのビジネスへの挑戦に取り組む時期に来ているだろう。

2.株主と密接なコミュニケーションできることを前提にした株式市場

基本的にはアーティストが生み出す作品も,企業が作り出す商品やサービスも作り手と受け手のコミュニケーションで成り立つ以上,基本は同じ考え方ができる。企業は企業活動を実現するために投資してもらうという意味では株式という仕組みを作り上げてきた。しかし,この株主のためという株主至上主義を掲げた米国の企業統治はエンロン事件に代表されるひずみを生み出した。結局のところ現在の株主は企業活動はよくわからないが,一定の利益を生む出すマシンとしか会社を見ていないわけであり,当然CEOはそのためだけに全力を注ぐ代表者ということになる。つまり,本来社会に必要な物やサービスを実現するために,それに共感する人であるべき株主がそうなっていないことが株式市場の最大の間違いだろう。株主は企業の理念を理解し,応援する人であるべきだが,現在は四半期ベースの業績にしか関心がない人である。確かに環境への取り組みなど社会的取り組みを判断軸においたファンドもあるが,それはそういう会社が将来伸びるからという理屈である。
ITは顧客とのコミュニケーションを容易にし,普通のユーザーが商品開発にまで参画することを容易にしている。それは同時に企業の理念や挑戦への参画も容易にする。企業が努力するべきはそうした一番身近な顧客を株主にすることであるだろう。ロイヤル顧客は商品を購入するだけでなく,企業活動そのものへの参加として株主になることを容易にしてあげるべきである。例えば商品に小口の新株予約券がセット販売されており,ヘビーユーザーはいつしか株を安価に購入する権利を手に入れることができる。本当にその企業を愛し,その企業の製品をよりよくすることに参加したいプロシューマーが株主になれば,求める配当は何よりも「企業が提供できる価値」である。オリエンタルランドはディズニーランドマニアの個人株主が多い。もちろん優待特典がインセンティブになっているが,この株主達は配当よりもディズニーランドがより魅力的になることを望んでいるだろう。アトラクションを増やすために増資を必要とする時,銀行よりも彼らこそがまっさきにお金を出したがるだろう。株式会社は自分ではできないことを人に託す手段として株式という方法を利用する。企業と顧客の関係が遠かった時代は去り,ITによって真の株式会社を構築する時期に来ていることを,経営者や証券会社の人たちは気づくべきであろう。

3.市民とコミュニケーションできることを前提にした税金

そしてもっともコミュニケーションできないことを前提にしているのが税金ではないだろうか。選挙によって選ばれた人に使い道を託すという意味で基本的な考え方が間接的なコミュニケーションであるが,すでに企業内では複雑な予算と管理会計でどの商品を開発するためにいくら投資され,販売コストがどのくらいかかり,結果的にどうであったのかは当たり前に評価できる。税金はある意味でプロジェクトファンドの集合体であり,全部集めてから分配方法を考えるやり方から,必要とする人たちから目的別に個別に徴収する比率を増やす考え方に変えることが可能なのではないだろうか。そうすれば税金をもっと払いたい人も増えるはずであり,納得性も高まる。PFIのように民間活力を活用することも悪い方法ではないが,公共財はその利便を享受する市民にとのコミュニケーションをベースに考えるべきである。そういう意味では目的税をもっと有効に活用することがITによって可能になってきている視点も忘れてはいけないと考える。現在eJapanは既存の仕組みを電子化して効率化する視点がほとんどであるが,本来的なITによって今まで不可能だった本来あるべき仕組みへの挑戦も忘れるべきではない。

これまでの仕組みが決して悪いわけではない。むしろ工業社会との親和性は高く,発展途上国ではこれまでの仕組みは今でも十分有効であろう。しかし,我々の社会は価値流通社会への変化のまっただ中にいる以上,ITが可能にした価値流通社会に求められる金融のスキーム作りが必要であることは間違いない。Mosaic誕生から10年,次の10年はITとFT(Financial Technology)が手を取り合った形での革命の段階になることを期待したい。